「たられば」よりも今できることを

もしブランコにのっていなければ。とは考えないはず。
このあとおちて擦りむいてしまうのですが!

誰しも過去を省みる瞬間はあるもの。
それでも、望まないことがあっても、自分のこれまで行動と単純に紐づけるのはやめましょう。
特に自分自身に関することではないのならば。

もし仕事していなかったら

もし仕事していなかったら、〇〇だったのに。私も何度考えたかわかりません。
「やや」厳しめな仕事環境で長く過ごしてきたので、仕事をしていなかったら、あれもこれもできたのではないかと想像してしまいます。

特に、子どものこと。母親として、
もっと早く気付いてあげられたのに。
もっと栄養あるご飯を食べさせてあげられたのに。
もっとやさしく接してあげられていたのに。と。

生活や家族のこともそうですね。
夫が穏やかでない様子をみて、私が主婦業を多くしていれば夫にそこまで負担にならなかったのになと考えたこともあります。

いろいろ積もり積もってしまったなぁと思ったり。
日々もっとよくなるように、もっとよい生活のために働いてきたはずなんだけどな、と。

私自身がそう思っていましたため、その気持も痛いほどわかりますが、ちょっと待ってみましょう。
それとこれとは全く関係ないのではないでしょうか。
全てを自分のせい、自分の行動の結果だと思うことはやめてみませんか。

すべてをコントロールすることはできない

自分さえしっかりしていたら、こうはならなかったのに、というのはひとつの奢り。
完璧にコントロールできると思うと疲れてしまいます。すべてコントロールをすることはできません。

また、ほんとうに自分だけがやるべきことだったのでしょうか。
自分をとりまく社会の価値観が、そう思わせているだけかもしれません。
一つの例でいえば、子どものことは、母親が「総責任者」的役割を担うことが多いですが、そうあるべきでもないはずです。父親など核家族の大人全員が主体的な役割を担うのが自然かなと。あるいはその他の人々や社会でみるという視点もあったらいいなと思います。

少なくても、海外の多くの国では、日本ほど「母親が〇〇だから子どもが✕✕」ということを言われないようです。
この数値がこのことを裏付けられるかはわかりませんが、ひとつの参考としては、2022年の日本のジェンダーギャップ指数は、146か国中116位(ちなみに、教育、健康がほぼ1.0に対して、政治のスコアは0.06と低い水準)。同スコア0.9のアイスランドに生まれていたのなら、女性は(男性も)上記のような責務にかられることはないのだろうと想像します。

とはいえ、そうするわけにもいかない現状からみると、時代と地域の影響というのは、自分の力ではどうしようもないところにあると考えられるのではないでしょうか。

たらればよりも今できることを

どうすることもできないということことを受け入れて、今できることに集中してみませんか。
「もし〇〇していなかったら」というたらればよりも、今できることを探しましょう。

そして、納得感を高めましょう。
完璧にはできないけれども、自分が思うようなことはできたという気持ち。
やりながら、日々、このままでよいのかと考えてみましょう。納得いく過ごし方ができているのかを。

もし違う場合には、早々に方向転換しましょう。思ったよりも方向転換にも手こずることもありますし、
時間がかかりますから早い方がいいですね。
私は、納得感がない日常をすてて方向転換しました。そしてまた、このままでよいのかを日々考え模索しています。今後また納得できない日々になれば進路を切り替えるでしょう。

現状は、この道で良かったと思うと同時に、過去を悔やんで「もっと〇〇したらよかったのにな」、と考えることもあります。その都度そういう思いに引っ張られずに、今できることに集中しています。

さて、冒頭の、「もし仕事していなかったら」には別の視点もありまして、
「もし育児家事だけに専念していたら」、早々にまいっていたでしょうね。
育児も家事も自分の意思だけではうまくいかないもの。コントロールできないもの。全力で取り組んでいてうまくいかなかったときの辛さを考えると、ぞっとします。やっぱり仕事も趣味も家庭も全部やっていてよかったなと思うのです。

【日記】
次女ひとりでトイレにいくように。踏み台なしでよじ登ります。ひとりでトイレできるようになったな〜としみじみしていると、「ドスーン!」と。みると便座から落下していました…。
トイレットぺーパーは、きれいにちぎり、きれいにたたみます。それにこだわりすぎて落下したようでした。

【something new】
鬼ピタ。ティッシュを机の裏にぴったり貼り付けました。
低反発ポリウレタンのリストレスト。匂いが独特かなと。

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