必死に走る。必死すぎて私の声が耳に入らない。
必死すぎて何かちゃうんちゃう?と思ったことについて。
必死すぎて見えない
とある場所でチラシを必死に配っている方がいました。お一人。
そういうのが苦手で、素通りしましたので内容もわかりませんが、
雰囲気からして、何かを利用して欲しいというような宣伝のためだと思います。
それよりも私は、
その方の目の前(一歩前くらい)に落ちていた、10センチくらいのぬいぐるみが気になりました。
いつもなら拾って何とか届けたかもしれませんが、チラシ配りの人に近すぎましたし、私はその場を避けたくて大きく遠のいていたので素通りしてしまいました。
目の前に落ちているまあまあの大きさのものには気づかないほど必死なのはちょっと怖いなと。
そこまで行くと、なにかしらの危険が迫ってきても気が付かない可能性もありそうです。
必死すぎて目的を忘れる
似たようなことで、
良いサービスを提供するためのルールを徹底しようとしすぎることで、
優良(?)なお客さんに不快な思いをさせる、ということを聞いたことがありました。
これも必死すぎて見えないことがあるという例の一つでしょう。
元々は、マナーの悪いお客さんや、収拾がつかない状態を何とかしたいこと、
一人一人丁寧に接客したいということで始まったルールだと思います。
しかし、そのルールを知らないのはモグリだと言わんばかりに
お買い物に来た純粋なお客さんを邪険に扱うのだそうです。言い方もあるでしょうに。
ルールがあって当たり前、というのはお店側の都合であって。
もしそれが作戦だとすれば意図がよくわかりません。
邪険にしても売れるからそういうことになるのでしょうか。
小さいことにも必死すぎて大きなミスをする
最後に、
小さいこともすべて完璧にしたいと必死になりすぎて、
大きなミスをするということが考えられます。
神は細部に宿ると言いますが、それは細部以外もきちんとしているという前提で、
さらに細部もきちんとしている、ということでしょう。
そういう意味では、小さいことから完璧に仕上げるよりも、
一番大切な本質的な本流のことをきちんと仕上げるというのがまず大事だと思います。
例えば申告書の作成のお仕事で言うと、
㈱、(株)、株式会社
の表記を統一する方が「完璧」でしょうけれど、
そういうことを意識しすぎて、決算仕訳を間違ったり、消費税の論点を忘れていたりすると、
それは「必死に」なるところを間違っていると思うのです。
たしかに、全部「完璧に」できると気持ち良いですが、
そういうことは望まれていない可能性があります。
少なくてもこれまで表記についてご指摘いただいたことはありません。
(内心思っていらっしゃる方もいるかもしれませんが。)
以上のとおり、
「必死に」なっているときは
ちょっと力を抜いて全体を俯瞰してみましょう。
【日記】
今日は梅雨の中でも雨が降らず。
早起きしてブログ書こうとしたら、次女がいつもより2時間ほど早く起きてきました。
そして、「○○(次女)こまってる。。」と言います。退屈で・・・。
私の方が困りました。早起きして次女の相手をすることになろうとは。
それにしても語彙が増えてきました。
長女はテレビに必死で。そういう年頃なのでしょうか。。
学校では図書で本を借りるのが楽しみなようです。
それにしても、学校で必須の絵具セットに5,000円かかることに驚いています。。